首相は参拝の是非を熟慮しているとはいいがたい

小泉首相は靖国参拝の理屈の一つに日本人の自然な気持ちとして当然靖国に参拝するといっている。大いに異議がある。およそどれだけの日本人が終戦記念日にみずから靖国神社に参拝したのか。あるいはどれだけの日本人が終戦記念日にみずから靖国に参拝したいと思っているのか。参拝は国民の自然な気持ちというなら 皆が納得できる証拠を示すことは簡単なはずだ。だがそんな事実はないのだから,むろん首相にも自民党にもそれはできないだろう。

国民の中には,キリスト教徒も仏教徒もイスラム教も,また無宗教の徒も多くおり,神社に参拝するなど考えられないという人たちも決して少なくはないのだ。自分の心を大切にしてほしいというのなら,他人の心も大切にすることができるのが大人というものだ。

総理は自らが行おうとしている「神社への参拝」が,どれだけ人の心を踏みにじるのか,想像がつかないのだろうか。他人の思いに配慮を払わずに自分の思いをとげたいと言い張るのは、こどものわがままと同じである。

国家に殉じた多くの人たちを敬うという心情は不思議ではない。それにふさわしい場所と体裁を整えてそれぞれのやり方で行えばよい。だが,国の殉職者を敬う気持ちの自然さを,神社参拝への自然さにすり替える論筋は,戦前の侵略主義者やヒトラーの行ったまやかしの宣伝活動と同じ程度に危険である。

幼稚で誤った論拠をもとに行動しようとする総理の「熟慮」は,熟慮という言葉に値しない。