「読書メモ」安心社会から信頼社会へ

今回とりあげるのは,安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)。2010年12月の課題本としてアウトプット勉強会(読書会)で取り上げられ,魚野はファシリテーターをつとめてきました。

会では,個人で仕事をしている場合と,チームで仕事をしている場合とで,信頼社会へのシフトの受け止め方が違っていたのが印象的でした。また,ヘッドライト型,地図型,いずれの知性も必要なのではという意見,安心社会が本当にくずれるのか,この点,課題本の論旨には説得力に欠けるのではといった意見,同じ著者の近著まで読んで検討したという報告,信頼社会に動かす誘因はなんだろうという疑問,日本社会を論じたものか,日本人論だったのかという疑問,来る社会に備えてスキルを磨きたい,あるいは自分のできることをしたいという決意表明など,いろいろと話が出てきました。

以下,うおの個人の読書感想文です。

信頼社会にシフトしていくだろうという論旨には共感。ただし,論拠に説得力あることをもっと書き込むべきだったと思う。論旨展開に対する違和感は,研究費取り扱いの非効率(p.5)に対する説明ですでに感じた。真因は間違いを許さない行政の不必要なまでの緻密さ要求(不寛容)であって,不信ではないのでは(不信が真因なら,とるべき対策は厳格な検査)。ところどころ出てくる実験結果の考察も,相関関係と因果関係を混同しているとまではいわないが,逆と対偶の問題があるのではと思う(具体的な懸念箇所は失念しました)。

信頼社会にシフトしていく動因を書き込むべきだったと思う。うおのが考える要因は,国際化,IT化,少子高齢化,新興国(特に中国)の勃興で,日本が,企業,農林漁業者,政府,個人,など社会のあらゆる面で,意図的,非意図的を問わず,海外とのつながらざるを得ない,故に,海外(*)での標準である信頼社会に移行するのが,日本が生き残るにはベターな選択,というもの。

*中国は安心社会型だという著者の近著の主張がメンバーから紹介されたが,その通りと思う。個人個人の主張は激しいが,企業や同郷といった属する集団とその外部との接し方の違いは,中国が日本と同様,近代的自我ではなく,封建的自我を持っていることを示すと思う(近代的・封建的自我の表現は魚野の勝手な造語。自我の壁が属する集団にまで広がっているのをなんて言うんでしたっけ?)。

近年進められてきた情報公開と手続きの透明性確保は,こうした社会学での成果を取り入れていいたのかと得心。でも,なぜこの二つが社会的不確実性を(今までの集団内での談合よりも)減らすことができるのかということについて論拠が示されていないので,論旨に共感,でも消化不良。

 著者は最後のまとめで,暗黙のうちに,日本やアジアが集団主義という見解をとっているが,この点は個人的には疑問。歴史的には個人主義の時代もあったのではと思うし,武士の倫理は個人主義的では,という意見。十七条憲法の「和」の精神も,集団主義の主張ではなく,動乱期を乗り越えて単に平和国家に移行したかったのではと思う(調べてないので,根拠はありません)。

 読書会での進行は,少し誘導的だった面があったかなと,この自分の意見を書きつつ思いました。

うおの