天安門事件の日に思う

また天安門事件の日がやってきた。六四天安門事件の当時,自分は1年間の中国留学から帰ってきたばかりの大学生だった。以前にも書いたが,普段は政治や外国のことがほとんど話題にならない工学部の同級生たちが,もっぱらこの事件を論評していた。

いくつかの感想がある。

まず日本からの視点。

特に中国統治に関わるニュースに対する相対的位置づけだ。直近ではシリアで,権力者側の武力による市民弾圧という同様の事件が進行しているが,ほとんど日本国内では話題にならない。これは,日本での中国への関心が人道的な観点から,あるいは人権的観点からという勢力がほとんどないことを意味するのだろう。

それはそうだろう。天皇を含む日本政府の戦争責任に関して,未だ他国のせいだけにしてしまい,統治システムのまずさやリーダーの判断の誤り,リーダーを支えるスタッフの判断の誤りを客観的に分析する努力が乏しい。20世紀にもなって政府が市民虐殺や慰安婦制度を推進したという事実は,規模の大小を問わず,非難すべきものだ。天安門事件で人権上の視点から中国政府を批判するなら,先の大戦で日本が犯した罪をも批判すべきだ。

批判とは,口汚く罵ることではない。事実がどうであったかを調べ,原因が何であったかを検証し,自分たちができる再発防止策を提言することだ。日本にいるなら,中国政府はこうあるべき論を展開してもせんないこと。外国に居る自分が,中国に対して,どういう働きかけをすれば再発防止となるか,状況の改善になるのか,これを考え,実行すべきだ。なにかしら有効な手立てを提言し,実行しているか,検証していけるかが,日本の今後100年を考えた場合に必要な行動だ。

もうひとつは,中国からの視点。

この問題に限らず,中国では報道や意見発表に管制が未だ強くはたらいている。そして,地方政府段階での統治が相当荒っぽいことについて,解決策が見えていない。これらはもっと中国国内で議論になって良いはずなのに,なっていない。こうした問題の原因は,つきつめれば共産党一党支配という体制の問題に行きつく。

ソ連の崩壊を目の当たりにし,また,中国が世界経済危機の防波堤となっていることを認識している中国の指導層が秩序の維持を最優先と判断するのは,さして不思議なことではない。だが,今の世界システムに経済ががっちり組み込まれている中国が,自由主義諸国と本格対立を本気で考えるとも思いにくい。また,経済成長による価値観の多様化した社会では,このまま一党支配を続けられないことも目に見えている。人口ボーナスによる経済成長の後押しが消え去る前に,つまりここ10年くらいの間に次の政治体制を構築することは,中国指導者層にとっては外国から指摘されるまでもない,最大の課題といえよう。

一つのアイディアとしては,国としては共産主義を目指すことを標榜することを維持しつつ,共産党が分派することで実質上の多党制・民主制へ移行することだ。今まで一党支配体制であったので,他の民主諸派---日本人の多くは知らないが,現時点でも中国大陸には中国共産党以外の政党が存在する。もっとも,共産党の指導のもとに活動をおこなっているという状況だが---をいきなり共産党と同格にするのは無理があろうが,共産党が2つくらいに分かれ,他の諸派も含めて互いに切磋琢磨するというのは,現実的な解なのではないか。体制移行の衝撃も,独立活動など地域別のセグメンテーション化よりも少ないであろうし。

事件で犠牲になられた人びとにあらためて哀悼の意を表したい。互いに穏やかに暮らしていける国際社会を創りだしていくことが,私たちの使命だと思う。互いに認め合う市民たちの互恵関係が維持・発展できるよう,人的,経済的交流を盛んにする必要がある。診断士として,6次産業化プランナーとして,教育関係者として,一市民として,そんな責務を果たしていきたい。