憂鬱な日

雨,憂鬱な日

行政府が,外国人被爆者に対する補償問題に関して,外国に住む被爆者に対する補償義務は無いとして上告したそうだ。この問題,先日のハンセン氏病の訴訟問題と同じく,被告に落ち度があって病や傷を負ったわけではないこと,被告が高齢化していることなどといったこの二つの訴訟共通の構造を考慮すれば,上告断念という政治判断も十分あり得たと思う。しかし結果はそうではなかった。そういう話すら出てこなかった。

その違いの理由は端的に言えば,小泉内閣というものの本質が人気取り政権だからということになるだろう。ハンセン氏病患者への補償なら,過去の行政を悪者にするだけで,今般もっとも悪者にされている官僚勢力以外からはさしたる反対もされないだろうが,外国人,特に植民地であった韓国の人がからんだ訴訟で譲歩するなという国粋派の圧力は,相当強いのだろうと思う。ハンセン氏病訴訟で国が譲歩したのは,何も小泉内閣や自民党・保守党・公明党の連立政権が弱者に配 慮する為政者になったからではなく,組閣直後の改革の目玉として,人気取りのために行われたのだと推測させられる。

私達市民が本当に求めていくべきものは,改革はもちろんのことだが,自立した国民から成る社会である。確かに小泉内閣は改革政権を標榜している。今までの自民党方式を変える兆しがあるという点も事実である。それはある程度までは実現するかも知れない。しかし所詮,経済効率優先/対米追従(=無目標)という国の目標は変わっていないことをも心にとめておくべきである。政官財癒着という経済構造の改革は,必要性をひしひしと感じている政治家は多い。財界も国民もそれ を望んでおり,大きな流れは官僚がいくら抵抗したところで変えられないであろう。だが,戦没者墓苑ではなく,靖国神社にゆきたいという政治家が率いる政治が,はたして国民の代表として国民のための政治を行うだろうか。説明責任の明示とか,公平な競争ルールといった日本が必要とする命題—本当の民主主義を機能させるための政策から,与党・行政府の意識はあいかわらず遠い。

いずれ小泉内閣は終焉を迎えよう。また,それを90%代の高率で支持していた国民の多くが自らの愚かさを呪う時が,遠からず訪れるだろう。今日,都議選が告示された。だが,リーダーシップと時代錯誤の我をごちゃまぜにする都民に期待できることは小さい。